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日本赤十字社と長崎(私の長崎学) (長崎北ロータリーでの卓話)
 今回、何をお話ししようかと悩んでいました。会員の方から赤十字の話をされるのですか?とお聞きになられたものですから、ハットいたしました。
実は日本赤十字社の創始者は佐野常民ですが、この方は私と縁がありました。
その縁とは赤十字社の創立記念日が私の誕生日と同じであるということです。全くたいした縁ではないのですが、私も日本赤十字社に在籍しておりますし、これを機会に色々と長崎との関係について調べてみました。

 佐野常民は1822年(文政5年)に、佐賀藩士下村家の五男として、有明湾に面する佐賀県川副町に生まれ、11歳で親戚の藩医師佐野家の養子になりました。ご存知のように佐賀藩は長崎に隣接し、長崎警備を福岡藩と交代で隔年受け持っていました。佐賀藩は良く言えば長崎を窓とした開明性と進取性を併せ持った藩風であり、悪く言えば江戸時代、長崎は天領であって、その警護はそれなりの負担がありましたが、逆に捨てがたい魅力があり、特に佐賀藩の役人や商人は、長崎でかなりはばを利かせていたようです。(佐賀出身の方には申し訳御座いません。昔は佐賀も長崎も同じですから勘弁してください。)つまり、長崎警護をする裏で、佐賀藩を支える資金源を得るために、密貿易が五島沖などで行われていました。
その貿易品は人参などの薬種や、有田焼などでした。そして、佐賀藩御用商人がそのような貿易で利益を上げ、その利益が日本初の反射炉建設、鉄砲の製造、アームストロング砲の製造、さらには蒸気船建造など、江戸末期に多くの先駆的業績を残すことに寄与したのです。その他に、長崎と佐賀藩のかかわりに種痘があります。ジェンナーが種痘を発表した数年後には既に日本で知られていましたが、実技はシーボルトによって初めて伝えられました。
その時は成功しませんでしたが、シーボルトに直接教わった長崎在住の佐賀藩医・楢林宗建(1824年シーボルトが開いた鳴滝塾で伊藤玄朴と同門)が1849年に日本で初めて種痘に成功しています。

 話はそれましたが、佐野常民はその後、佐賀藩校である弘道館(現在の佐賀西高、江藤新平、大隈重信、副島種臣等も学ぶ)で学び、江戸(伊藤玄朴)、京都、紀伊(華岡青洲が残した青林軒塾)、大阪(緒方洪庵の敵塾)に留学し、医学、砲術、蘭学などを研鑽して、30歳で長崎に塾を開きました。
そして1855(安政 2)年、33歳の時に海軍士官養成のために幕府が開設した長崎海軍伝習所に第1期生として参加して、造船・航海・砲術などを学びました。この伝習所は長崎奉行西役所(奉行所としては主に立山役所が使用され、西役所は奉行交代時の宿舎として使用)にあり、オランダ海軍士官ペルス・ライケン(第1次指揮官)以下22名の指導の下、オランダから贈られた軍艦スームビング号(後に佐賀藩所有の観光丸となる)を用いて近代的な教育が開始されました。2年後の1857年には第2次指揮官カッテンディーケがヤーパン号(後の幕府所有の咸臨丸)で来日して教授することになり、第2期・第3期の伝習が行われました。第1期生の学生長に勝海舟(14年後の1869年に咸臨丸でアメリカに行く)がおり、第2期生には榎本武揚(海軍副総裁で開陽丸を率いて函館に行き、函館戦争に参加、黒田清隆により助命)もいました。常民は海舟を頭にともに伝習所で勉強していたわけです。
長崎港に浮かぶ蒸気船が想像されます。しかし長崎海軍伝習所は1859年に閉鎖され、その後、1866(慶応2)年には横浜海軍伝習所が設立されましたが、1867年に勝を教授方頭取にして東京築地に軍艦操練所が出来たために、横浜海軍伝習所は軍艦操練所に吸収されました。
これが後の海軍兵学校になるわけです。やはり、流れが地方から中央にとなるわけですね。

 海軍伝習所の教官の中に当時28歳の海軍軍医ポンペもいました。 1857年11月12日長崎奉行所西役所(1874年、明治7年ここに洋風木造2階建ての長崎県庁完成)の一室で松本良順(初代軍医総監、近藤、土方らの傷病治療、沖田の死を看取った。)ら12名の医学伝習生に最初の講義を行ない、この日を長崎大学医学部の創立記念日としています。ポンペの講義所はその後、伝習生の数が増えたため大村町の高島秋帆(高島流砲術、幕府採用)廷内の一屋(現・長崎地方裁判所所在地)に移り、大村町医学伝習所と呼ばれました。彼は1859年に長崎西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習をおこない、受講者の中にシーボルトの娘イネもいたそうです。1860年にはポンペは小島に長崎養生所・医学所(精得館)を設け、帰国後ボードウィンに変わり、大村藩出身の長与専斎がここで学んでいます。なんと、ポンペ講義後11年目の1868年には長崎府医学校と改称し、専斎が初代校長になっています。
 さらに、これも余談ですが、カッテンディーケ等と共に長崎の製鉄所建設の任務を 帯びた機関将校ハルデスも来日しました。長崎製鉄所は飽の浦に建設が始まり、わが国最初の近代的洋式工場となりました。この幕府直営の長崎製鉄所は明治維新後官営長崎製鉄所となり、後に払い下げられ三菱長崎造船所として発展しました。長崎にはわが国最初という事業が多いものです。  
 常民はその後、佐賀藩に海軍を創設し、船将(観光丸の艦長)になっています。1867年、45歳の時、佐賀藩を代表してパリ万国博覧会に行きまして、ここで始めて赤十字パビリオンを見て、万国(国際)赤十字社(スイス人アンリ・デュナンが1864年に創始)の組織と活動を知ることになりました。
一方、明治政府が誕生して間もなく1877年(明治10)に西南戦争が始まりました。激戦に次ぐ激戦で両群の負傷者や死傷者がおびただしく、特に西郷軍の死傷者が野山に放置されていました。かつて適塾で学んだ仁術の精神、パリ万博で出会った赤十字の理念などがベースにあった常民は敵味方なく救護する必要性を唱え、博愛社設立請願書を政府に提出しましたが、「敵の傷者も差別無く救う」という趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。
しかし彼は1877年5月1日(日本赤十字創立記念日で私の誕生月日)に戦場となった熊本に出向き、政府軍の総指揮官有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に直接嘆願し、ついにはその熱意により、即日博愛社設立の許可を受けることが出来、これが日本の赤十字事業の幕開けとなりました(国際赤十字社に遅れることたった13年)。

 博愛社の組織は東京本部を中心に大阪支局の他に戦場に近い長崎、熊本、鹿児島のみに各支局が置かれました。これが現在の日赤長崎県支部の歴史的始まりです。当時、長崎では大浦外人居留地に海軍仮病院、大音寺に第一分遣長崎軍団病院が設置され、その後も長崎の18の寺院と83の民家に軍団病院宿舎が置かれました。軍団病院とは時の陸軍省がドイツに真似て設けたものです。なお出島町のキニーフル製薬場にも軍団病院があったとの記録がありますが、詳細はわかりません。西南の役の戦傷者は有明海から船で長崎に搬送され、1日に数百人に達することもありました。そして、この軍団病院に博愛社長崎支局から医員や看護手を派遣して治療に当たらせました。当初長崎支局は熊本にいる常民の管轄下にあり、以後は東京本部からの特派員の管轄下に置かれ、戦地救護を実行する熊本、鹿児島の事業を統括しました。その後、長崎支局は1878年に一旦閉鎖されましたが、鎮西日報社長を委員として委嘱していました。1888(明治21)年に正式に日本赤十字社長崎委員部が設置され、初代委員総長は日下義雄でした。1894年(明治27)年、現在の名称と同じ日本赤十字社長崎県支部と改称され支部事務所を県庁に置き、初代支部長は大森鐘一がなりました(現支部長は金子県知事)。
特に、日下義雄は会津藩出身で17歳の時、鳥羽伏見の戦いに参戦し、会津さらに函館での戦争にも加わり、捕虜となり、赦免後、井上馨の知遇を受け、岩倉欧米使節団に同行しました。明治19年には長崎県令になり横浜・函館に次ぐわが国3番目の近代水道施設「旧本河内高部ダム」を残しています。

1886年(明治19)年、万国赤十字社同盟にブルガリヤの次の34番目に加盟し、翌年、博愛社を日本赤十字社と改称し、常民は65歳で初代社長になり、80歳で没しました。以上のように、昔、長崎は日本における医学・航海術・工業などの発祥地であり、しかも日本赤十字社設立と深い関係がありました。ご静聴ありがとう御座いました。
 
 
 
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